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2008.09.08 昔は人生50年と申しまして、半白ともなりますと公に老人の仲間入りをして、茶の湯の世界でも茶の服紗、紺の足袋、自在の使用、女子の通いなどが許されていました。 しかし現在では50歳ではまだまだ外見も若く、老人と呼ぶには相応しくないというのがおおかたの一致した見解だろうと思います。 なぜこんな書出しになったのかと申しますと、実は今日は私の誕生日でして、人生一区切りの年齢に達したからであります。 新年、新しい年の初めには心新たにその年の抱負など、希望に胸膨らませて思い描くものです。大晦日から元旦の時の流れの中では何の変化もないはずなのに、人間の心とは何と不思議なものであるかと思わざるをえません。 それと同様に、人生の節目の歳を迎えるに当たって、今日は『お茶の稽古』というものについて自分の考えを纏めてみたいと思います。 自分の考えを申し上げる前に、先ず一般的なお茶の稽古についてその段階を整理してみようと思います。 初心、先ず何も知らないところから入る訳ですから見ること聞くこと初めてのことばかりです。ひたすら言われた通りに見よう見まねに一心にその形を覚えます。体と所作はぎこちなく堅いものですが心は無心です。 学ぶとは真似るというところから始まります。 こうして稽古を重ね、一年ほどもしますと一応平点前の順番も覚え人前でお茶が点てられるようになります。ここからが次の段階です。 平点前以外のその上の点前を覚えたいと心が湧いてきます。これは向上心と言ってもよいと思います。先輩諸氏や、宗匠がたの書かれた書物にもそのようなことが書かれていますし私もそうでした。これは有って可然であります。 しかしここが落とし穴で、次から次へと新しい難しいものへと心が移り、点前には慣れてくるものの、初心の基本的な所作を忘れ我流になっていくという傾向が顕著に現れてきます。 珠光一紙目録にある「この道一番悪き事は 心の我慢我執也」という書き出し部分がよくその辺りを表しています。我慢とは忍耐という意味ではなく我儘と考えれば宜しいでしょう。 つまり、目立ちたいとかよく見せたいという気持ちに心が苛まされる時期がくるものです。 先般、神奈川同門の一般講習会で本部から派遣の某宗匠が、しきりに何回も「扱い」のことを亭主役、客役の双方に注意されていました。何の気なしに道具を持つのではなく、正確に正面を意識して扱いなさいというご指摘でした。 これは「茶碗のあつかい」という題目で十年以上も前に堀内宗心宗匠が茶道雑誌に書かれている内容そのものでしたが、某宗匠のご指摘はその受け売りでは決してないのであります。 同じ道を歩んでいると、必ずそこを通るという証にも感じられました。 こうしたふとしたきっかけで、前述の迷道に気付き又は師の指摘に寄って気付かされ、次への段階へと入って行くのです。 『守・破・離』と言う言葉が有りますが、第一段階を『守』とすれば、迷道に入っている時は『破』ではなく、「外れている」と堀内宗心宗匠も仰っておられます。直ちに本道に戻さなければなりません。 基本を忠実に習い、身に凍みて自分の自然な所作になるところまで修練しないと本来の道には進めないと私は信じています。 家元の三八稽古では平点前しかしないと聞いています。相伝のお許しも全て頂いた人でも、毎回同様なこういう点前の稽古をするのは何故でしょうか? それは基本の所作を体と心が一体となって、自然にできるようにするために修練しているのだと私は思います。 茶道は総合芸術であるとよく言われますが、決して鑑賞芸術ではないのであります。お茶は実践であり、人に見せるためのものではないのです。 ここが、他の習い事と大きく異なるところであります。 人に見せるものでないとすると、何故何年も何年も同じ稽古を繰り返すのでしょう? 明確な答えをお持ちで無い方がおられましたら、今一度じっくりと自問されては如何でしょう。 人は何かを求める時は必ず目的があり、そのために手段を選ぶのです。お稽古は目的を達成する為の手段であると私は思うのです。 「お茶をするための手段として稽古をする」という考えもあるでしょうが、では何のためにお茶をするのでしょう? 不白筆記の中に、如心斎は不白の「稽古のありよう」についての問いに、「ただモギドウにするがよい」と答えています。モギドウとは、ただひたすらというような意と解釈すればよいでしょう。 また、先代即中斎宗匠も同様に「一にも修練、ニにも修練」と言っておられます。(茶道雑誌より) 私は前述の第二の段階を通り心技一体となってこそ、その人の醸し出す人格や生活を表現できるものであると思うのです。 ここが次の段階であり、ここに至っては人に見せるなどと言う考えは微塵も無いのであります。ただ茶を点てるだけなのです。 川上不白は「よきと云われれば辱 下手に云われればなお更辱 ただ何とのう過ぎたるがよし」と言っています。良いと言われても、悪いと言われても、それは点前に目立つところがあるからこそであり、利休居士の言われるように「いつのまにやら済む」という境地にいたらねばならないと著しています。 さて、そろそろ私なりの結論を述べましょう。 私にとって茶は生活そのものであって、普段の生活とは別な所に存在するものではないのです。 禅がそうであるように、そのことをしながら他界から自分を客観的に眺め、自分を取巻く垣根を外し、外界と一体になる。そのための修練として、稽古を重ねるというのが私の考えです。 しがらみを持たず、見栄を捨てれば身も心も軽くなります。 これを端的に延べますと、「応無所住而生其心」(まさに住する所のうして、しかもその心を生ず)ということであろうと信じています。 結論は導き出せておりますが、自分のものにするには未だ残りの半生を費やさねばならぬようであります。 まあ、気長にお茶三昧することと致しましょう。 平成二十年九月八日 直心軒 |
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おめでとう! |
中松です 2008/09/10 13:38 |
おう、久しぶり! 見ていてくれたんですね、有り難う。 |
直心軒 2008/09/10 16:43 |
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