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zoom RSS 茶道筌蹄が書かれた時代背景について

<<   作成日時 : 2007/03/18 21:15   >>

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2006.05.31

茶道筌蹄の概要についてご紹介いたしましたので、今日はその時代背景について、また、千家にとってこの時代がどのようなものだったかについて考えてみましょう。

 利休から始まり、少庵、宗旦と侘茶を継承してきましたが、世の中は徳川の世となり安定し、利休もいなくなり、武家の茶が世にもてはやされるようになりました。

宗旦から後を継いだ江岑は、その書の中で何点か今の茶は利休以来の家流とは異なると言っています。宗旦もそうでした。
宗旦は、こじき宗旦といわれるように、どこにも仕官せず侘茶人として不自由しながらもその生き方をつらぬきましたが、千家を守るために子供達には、それぞれ大名への仕官口を必死になって探したのでした。
表千家、裏千家、武者小路千家の三千家の確立がそれです。

中でも本家である表千家は、徳川御三家の紀州の茶堂となりました。以来、表千家と紀州家との関係は明治まで続くこととなりました。

表千家にとって大きな転換期は、6代目覚々斎の時におとずれます。時の将軍が亡くなり、御三家から、といっても水戸は将軍にはならないので、尾張か紀州のどちらかが将軍になることになった訳です。
年上の尾張が将軍になるだろうと思われていましたが、どういうわけか紀州の殿様、徳川吉宗が将軍となってしまいました。
この辺の経緯は、落語でも話しネタになっていますので、興味のある方はどうぞ。

さて、吉宗の茶堂を勤めていた覚々斎は、一躍将軍様にお茶を教えていたということで、世間の評も格段に上がり、格式も重んじられるようになりました。
このころから表千家のお茶が世間では隆盛となり、お茶を習う人も増えてきました。
しかし、宗匠は紀州の殿様の茶堂であるので、だれもかれも教えるということはできなく、代わって京都で表千家の茶を教える組織が必要となり、また、代わりに教え、家元代行でお免状を発行する組織ができてきたのです。

それが、以前より表千家とは深いつながりのある血縁関係の久田家であり、覚々斎に和歌を教え、代わりにお茶を教わった堀内仙鶴の起こした堀内家であった訳です。

それでも茶道人口が増えて来ると、お稽古の仕方も一人一点前の仕方では人数がこなせなくなり、いきおい、点前をしている人以外の人の真剣みが欠ける、といった不具合がおき始めました。 

茶道が世にもてはやされるほど、本質からはずれ廃れていくであろうと予言した利休の言葉が現実となって来たのでした。
それを憂い、なんとか稽古の仕方で元にもどそうとしたのが如心斎でした。

如心斎は、その高弟川上不白、如心斎の弟で裏千家の宗室、中村宗哲、大龍和尚達と協力して「七事式」を何年も掛けて制定しました。
この偉業が、中興の祖といわれる所以なのです。

七事式制定後、川上不白は如心斎の命を受けて江戸に下り、表千家の茶を江戸に広めることになります。これが後に江戸千家となります。

江岑が幼少の随流斎に江岑夏書を残したように、如心斎の子、碌々斎が幼少であったため、川上不白は師である如心斎の言ったことを書き留めたのであろうと思われます。

川上不白は如心斎口授以外にも「不白筆記」を残していますが、こちらは如心斎口授に比べ、読む対象者を非常に上のステージに位置付けており、心がともなわないと理解出来ない部分が多いため、先ずは入門書として、「茶道筌蹄(如心斎口授)」が最適だと思う次第なのです。


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